物語を語るものが世界を支配する

ドラマ、映画、小説、マンガなどあらゆる”物語”について語っていきます。ブログ名は、ネイティブアメリカンのホピ族の諺から。

翻訳ミステリーの登場人物表は、できれば完璧にして欲しい

翻訳ミステリーの登場人物表は、完璧にして欲しい!


と、翻訳ミステリー小説を読むたびに思ってしまう。


たいていの場合、翻訳ミステリーの冒頭には、「主な登場人物」の一覧表が付いている。
この登場人物表が付くようになった経緯は知らないのだが、昔の日本人にとっては、外国人の名前は馴染が少なく、覚えにくかったからではないか、と推測している。
私の母は外国人の名前は覚えにくいので、翻訳ミステリーはあまり読みたくない、とよく言っていた。


海外ドラマや洋画のおかげで、最近は海外の色々な名前が馴染んできている。
マイケルやジョニー、ジョージ、エマ、レイチェル、アマンダなどの名前なら、人物表を見なくても容易に記憶できそうだ。


それでも時折、覚えにくい名前や、似たような名前がいくつも登場して混乱することもある。
そんな場合は、登場人物表は確かに役に立つ。その点は異存はない。


けれど。


どうせ登場人物表を作るなら、完璧にして欲しいのだ。
「主な」登場人物ではなく、「すべての」登場人物の一覧表にして欲しい。
少なくとも、名前のある登場人物は、すべて登場人物表に掲載して欲しい、と思ってしまう。


それは「私が完璧主義者で、不完全なものが許せない」からではない。
「犯人を推理する楽しみ」が減ってしまう、からだ。


ミステリの主要人物には、探偵役、被害者役、時としてワトソン役がいるが、絶対に欠かせないのは言うまでもなく犯人役だ。


犯罪小説や倒叙型ミステリなら最初から犯人は明かされている。けれどオーソドックスなミステリでは、犯人は伏せられてる。
それなのに、ミステリを最後まで読んでも、犯人はわかりませんでした、というのは(一部の特殊な作品を除いては)許されない。


犯人は間違いなくミステリの主要登場人物だ。


となれば、登場人物表の中に、その名前は必ず書かれていることになる。
しかし、登場人物表が、「主な」登場人物(表)として限定された人物名しか記載されていない場合、容疑者の数も予め絞り込まれてしまう。


もちろんストーリーの流れを追っていけば、犯人と思しき人物は徐々に絞り込まれていく。しかし、登場人物表が、「主な」登場人物(表)である場合は、先まで読み進まなくても、登場人物表を眺めているだけで、可能性は絞り込まれてしまう。


ミステリを読みなれている人ならば、今回はこのパターンか、あのパターン、もしくはこちらのパターンの犯人かな、と大雑把な見当がついてしまう。


推理しやすくなっていいじゃないか、と思われる方もいるかもしれないが、私にとってはそうではない。


最後の種明かしまで、犯人はこの人か、あの人か、はたまたこっちの人か、それとも意表を突いてそっちの人か? と様々な妄想を楽しみたいのだ。最後の瞬間まで、Myst(霧)の中で思考の迷路を右往左往する、ことこそがうれしいのだ。


にも関わらず、「主な」登場人物(表)を出されてしまうと、表に載っていない人々を疑う楽しさが奪われてしまうのだ。


通りすがりの目撃者や、これと言って特徴のない宅配業者や、コンビニの店員や、単におしゃべりなだけの近所の主婦まで疑って、五里霧中の世界で迷い続けたい。


簡単に推理できてしまうストーリーでも、最後まで楽しみたい、骨までしゃぶりつくしたいという願望を打ち砕いてしまうのが、「主な」登場人物(表)なのだ。


登場人物表を付けないという選択肢もあるが、できれば完璧な登場人物表を付けて、私を
ほんのしばらくでも、Myst(霧)の迷宮で彷徨わせてくれたら、これに勝る喜びはない。


出版社の善処に期待したい。