人間失格 太宰治と三人の女たち
紛れもない傑作だ。
蜷川実花は、蜷川幸雄の境地に達しつつある。
描かれる男と女の業は、ときに甘やかで扇情的だが、どこか滑稽でもある。
自分勝手なクズにみえる太宰は、女たちの願いを拒みきれなかっただけの、弱くうかつで優しい男にもみえる。
一方で、太宰が追い求める至高の作品への執念も描かれる。
生きたままの自分自身の腹を裂き、はらわたを引きずり出すような想いをしてでも描くべきだという強烈な意思。
それらを描く蜷川の手腕は見事だ。
業を炙り出し、観客の目と心に強烈に刻印する魅力的なシーン、生き生きとした台詞。
その蜷川の想いを実体化させる役者たちの演技もいい。
美しく儚げだが、したたかな沢尻エリカ。夫に翻弄されるだけのように見えて、凛として力強い宮沢りえ。
とくに様々な表情をみせ、かわいらしさ、愚かさ、怖さ、純粋さを演じきった二階堂ふみが強く印象に残った。
そして、これまでで最も心惹かれる小栗旬の演技。
極彩色な色使いで知られる蜷川だが、本作ではむしろ抑えられている。
真っ暗な夜の海から始まる冒頭の場面。死にかけた太宰が雪の中に横たわる、白と血の赤のシーン。抑えることによって、色は物語をさらに引き立たせる。
人々が、この作品を味わう感性を持ち合わせていないとしたら、とても残念だ。
翻訳ミステリーの登場人物表は、できれば完璧にして欲しい
翻訳ミステリーの登場人物表は、完璧にして欲しい!
と、翻訳ミステリー小説を読むたびに思ってしまう。
たいていの場合、翻訳ミステリーの冒頭には、「主な登場人物」の一覧表が付いている。
この登場人物表が付くようになった経緯は知らないのだが、昔の日本人にとっては、外国人の名前は馴染が少なく、覚えにくかったからではないか、と推測している。
私の母は外国人の名前は覚えにくいので、翻訳ミステリーはあまり読みたくない、とよく言っていた。
海外ドラマや洋画のおかげで、最近は海外の色々な名前が馴染んできている。
マイケルやジョニー、ジョージ、エマ、レイチェル、アマンダなどの名前なら、人物表を見なくても容易に記憶できそうだ。
それでも時折、覚えにくい名前や、似たような名前がいくつも登場して混乱することもある。
そんな場合は、登場人物表は確かに役に立つ。その点は異存はない。
けれど。
どうせ登場人物表を作るなら、完璧にして欲しいのだ。
「主な」登場人物ではなく、「すべての」登場人物の一覧表にして欲しい。
少なくとも、名前のある登場人物は、すべて登場人物表に掲載して欲しい、と思ってしまう。
それは「私が完璧主義者で、不完全なものが許せない」からではない。
「犯人を推理する楽しみ」が減ってしまう、からだ。
ミステリの主要人物には、探偵役、被害者役、時としてワトソン役がいるが、絶対に欠かせないのは言うまでもなく犯人役だ。
犯罪小説や倒叙型ミステリなら最初から犯人は明かされている。けれどオーソドックスなミステリでは、犯人は伏せられてる。
それなのに、ミステリを最後まで読んでも、犯人はわかりませんでした、というのは(一部の特殊な作品を除いては)許されない。
犯人は間違いなくミステリの主要登場人物だ。
となれば、登場人物表の中に、その名前は必ず書かれていることになる。
しかし、登場人物表が、「主な」登場人物(表)として限定された人物名しか記載されていない場合、容疑者の数も予め絞り込まれてしまう。
もちろんストーリーの流れを追っていけば、犯人と思しき人物は徐々に絞り込まれていく。しかし、登場人物表が、「主な」登場人物(表)である場合は、先まで読み進まなくても、登場人物表を眺めているだけで、可能性は絞り込まれてしまう。
ミステリを読みなれている人ならば、今回はこのパターンか、あのパターン、もしくはこちらのパターンの犯人かな、と大雑把な見当がついてしまう。
推理しやすくなっていいじゃないか、と思われる方もいるかもしれないが、私にとってはそうではない。
最後の種明かしまで、犯人はこの人か、あの人か、はたまたこっちの人か、それとも意表を突いてそっちの人か? と様々な妄想を楽しみたいのだ。最後の瞬間まで、Myst(霧)の中で思考の迷路を右往左往する、ことこそがうれしいのだ。
にも関わらず、「主な」登場人物(表)を出されてしまうと、表に載っていない人々を疑う楽しさが奪われてしまうのだ。
通りすがりの目撃者や、これと言って特徴のない宅配業者や、コンビニの店員や、単におしゃべりなだけの近所の主婦まで疑って、五里霧中の世界で迷い続けたい。
簡単に推理できてしまうストーリーでも、最後まで楽しみたい、骨までしゃぶりつくしたいという願望を打ち砕いてしまうのが、「主な」登場人物(表)なのだ。
登場人物表を付けないという選択肢もあるが、できれば完璧な登場人物表を付けて、私を
ほんのしばらくでも、Myst(霧)の迷宮で彷徨わせてくれたら、これに勝る喜びはない。
出版社の善処に期待したい。
未来ブレスト(1)自動運転が実現すると、クルマを所有しなくなる
未来はどんなかたちをしているのだろう?
未来学という学問がある。
様々なデータやシミュレーション手法によって、未来を予想するという。
そういうデータや、ノウハウも持ち合わせていない場合、未来について考えるのは、単なる妄想だと言われるかもしれない。
けれど考えることは、間違っていたとしても、未来を予想するためのヒントになる。手がかりになる。
誰か、未来を知りたい人のために役に立つか、それとも駄文として読み捨てられるかはわからないけれど、新しい年のはじめにあたって、未来について、ひとりブレインストーミングしてみようと思う。
今回は自動運転の未来について、考えてみたい。
「完全な自動運転」が実現したら、どんな世の中になるだろう?
「完全な自動運転」とは、人間の介入を一切必要とせず、すべてクルマが判断してコントロールできる状態だと思っていただきたい。
技術的、法的問題がすべてクリアされている世界と仮定しよう。
「完全な自動運転」が実現したら、駐車場がほとんどいらなくなる。
と思っている。
クルマでどこかに出かけるとき、微妙に煩わしいのが駐車場探しだ。
混雑している観光地や大型ショッピングモール、あるいは大都市の中心部では、駐車場探しや入場待ちで苦労する。
けれど完全な自動運転車両なら、駐車場なんて探す必要はない。乗客はダイレクトに目的地に向かい、そこで降りるだけでいい。
クルマは自分で出発点に戻り、またあとで迎えにくる。あるいは、少し離れた空いている駐車場まで行き、また呼び出されるまで待機している、ということもできるはずだ。
いや、ちょっと待て。
それだと駐車場が不要とまではいかない。遠くに行くときは、いままでどおり駐車場が必要だろう。
と思われるかもしれない。
けれど、私はもうひとつ大きな変化が起こると思っている。
クルマを所有する意味を、人々は感じなくなるのではないか。
ドライバーである所有者本人にとって、クルマを持つ意味のひとつは、運転すること、それじたいにある。
実際的な用途とは別に、クルマを運転して走ることじたいが楽しいのだ。
だからこそ、車に愛着を感じ、飾り立てチューンナップしてきたのではないだろうか。
運転できない車に乗るのは、バスやタクシーに乗るのと、感覚的には変わらない。
運転できるからこそ、所有する意味を感じていたのではないだろうか?
運転できなくてもなお、車に愛着を抱く人々はそれでも残るかもしれない。けれど、多くのドライバーが運転できない車の所有欲を失っていく。と私は予想している。
そしてクルマを所有しない人々に代わって、タクシー会社、レンタカー会社、そしてカーシェアリングの会社、それらが融合したサービスを、自動運転車両を使って提供する会社がいずれ現れる。
仮にそれを自動運転カーシェアリング会社と呼ぼう。
人々は、その会社に毎月一定料金を支払って、自動運転車を使う権利を得る。利用者が負担するのは、その料金だけだ。
車の購入代金も、ガス代も、自動車保険も、車検やその他の点検・整備費用も、税金も、駐車場料金も支払う必要はない。自動運転カーシェアリング会社との契約以外の煩わしい手続きからは、すべて開放される。
それだけではない。
自動運転車はどこへでも、タクシーのように呼び寄せることができる。レンタカーやカーシェアリングの場合のように、しかるべき場所まで、利用者自身が車を取りに行く必要もなければ、返しにいく必要もない。
呼び寄せて、目的地への移動を果たせば、あとは存在を忘れてもかまわないのだ。
しかも、車種も、目的や用途に合わせて変えることができる。
4ドアセダンでも、オープンカーでも、ワンボックスカーやキャンピングカーでも好きな車種を選べる。
富裕層でなくても、多彩な車を所有しているのと同じ感覚で使えるようになる。
もちろん、自動運転カーシェアリング会社はまだ、私の頭の中の妄想だ。
けれど「完全な自動運転」が実現される未来には、従来の自動車サービスも、自動運転カーシェアリング会社のような新サービスに業態を切り替えていくと予想している。
クルマを所有せずに自動運転カーシェアリング会社を利用すれば、これだけ便利に気楽になるとしたら、どれだけの人々が所有にこだわるだろうか?
自動運転の本格化とともに、大半の人々が車を所有しない時代がやってくる、と私は思っている。
さて、駐車場がほとんどいらなくなる、という話の続きだ。
自動運転カーシェアリングが主流になれば、ある利用者を目的地まで運んだ車は、すぐ次の利用者のもとに向かうことになる。需要の高い地域なら、ほぼ24時間稼働し続けることになる。
駐車している暇などなくなるだろう。
だから駐車場は、ほとんど不要になると思うのだ。
この傾向は大都市圏ほど顕著になる。
活動人口が多く、自動運転車両の需要が高いので、駐車して遊ばせておく暇はなくなる。
地価の高い都市部では、駐車場にしていた土地は、別の運用方法を考える方が合理的となるだろう。
少なくとも、大都市圏の中心部における駐車場の需要は激減すると思う。
より郊外の地価の安い場所での需要のみになっていく、という気がする。
また、免許証を持ったドライバーがひとりも含まれていなくても、自動運転車に乗れるようになれば、子供の送り迎えも、自動運転車両に任せることができるだろう。免許証のない奥さんの買い物に旦那さんが付き合う必要もなくなるかもしれない。
運転免許証を所有する人間が絶滅危惧種になる日も、遠い未来ではないかもしれない。
70年台大河ドラマの主題曲は、荒々しく、生きる力に満ちあふれていた!
20世紀に比べると最近の音楽は、曲の構成というか、構造が複雑になっている気がする。
シンプルなメロディは作り尽くされ、作曲家としての技量を示すには、より高度で複雑な技をみせる必要があるのかもしれない。と推測してみるが、本当のところはどうなのだろう?
この傾向は大河ドラマでも同じだと感じる。
ひるがえって考えてみると、20世紀の大河ドラマの主題曲はシンプルだった。
とくに、70年代の大河ドラマのテーマ曲はシンプルで荒々しく力強かった。
例をあげてみよう。
「国盗り物語」
冒頭の荒々しいドラムの音が、野卑で剽悍(ひょうかん)な野武士や足軽が駆け抜ける様を思わせた。
今に至る、すべての大河ドラマの主題曲の中で最も、戦国を感じさせる曲だと思う。
今どきの戦国系アクションゲームでは、足軽や野武士など、ただの雑魚扱いだ。
けれど、あの時代を生きた彼ら自身は、微塵もそんなことは思っていなかった。
自分こそが主役だ。いまはそうでなくても、間もなく、きっとそうなる。戦国の主人公は絶対に自分なのだ。彼らはそう信じていた。
立派な鎧でふんぞり返っている侍大将なぞ、すぐにでも馬上から引きずり下ろして討ち取り、自分がなり代わってやる。城主となり国主となって、時代の主役にのし上がってやる。
そういう強く激しい意思を体現したかのような、生きるエネルギーに満ち溢れた曲だった。
いますぐにでも、YOUTUBEで確かめてみるといい。
生きる力に満ち満ちたパワフルな曲が、あなたの心を揺さぶるはずだ。
「勝海舟」
砕け散る波濤とともに始まるオープニングは、世界の荒海に漕ぎ出していく幕末の時代人の心意気そのものだったと思う。
音楽だけではなく映像も、70年代の大河ドラマは超シンプルだ。
「勝海舟」のオープニング映像は、海と帆船それだけだ。
荒々しく打ち寄せる怒涛か、静かな凪の水面か、海の表情は変わっても、本質的には海とそこに浮かぶ帆船以外は、映像に現れない。
映像も曲も、(現代に比べれば)取り立てて凝った技巧もひねりもない、シンプルそのもののオープニングだった。
だが、この曲もまた「国盗り物語」同様、強く生きる力を与えてくれる。
見も知らぬ未来の扉を開け、大海へ乗り出していく勇気を与え、混迷の時代を切り拓く闘志をかきたててくれる。荒々しくも清々しい曲だったと思う。
「風と雲と虹と」
この曲を聴くと、フランスの作曲家、モーリス・ラヴェルが1928年に作曲したバレエ曲『ボレロ』を思い出す。
ボレロと同じく、同じリズムで同じメロディーが繰り返され、最初の小さくささやかな演奏が、最後にはオーケストラによる大演奏となって終わる。
「風と雲と虹と」は、大河ドラマで扱った中では最も古い時代の物語だ。
10世紀、平安貴族の王朝文化が最盛期を迎えようとしていた時代。中央政府の圧政に叛旗を翻して、関東に独立王国を築こうとした平将門《たいらのまさかど》を描いたドラマである。
純朴で真っ直ぐな若者、小次郎将門が、退廃した貴族社会の荒波に翻弄されて傷つき、狡猾な伯父たちの悪巧みで領地を失いかけ、ついに平将門の乱を引き起こす。
武士がまだ支配層ではなく、下層の貧しい武装開拓農民に過ぎなかった時代のドラマだ。
オープニング曲は、関東の大地から立ち上がってくる武士や農民たち、庶民の力強い姿を思い起こさせる。土の匂い、風の匂いを感じさせる。
貴族ではない、新しい武士の時代、庶民の時代の到来を予感させる曲だ。
もちろん、例によって映像も超シンプル。
一頭の馬が駆けていく、ただそれだけの映像だ。
けれど、その映像には、大地に根ざして生きる農民たち、武士たちの姿が重なる。
私たちと同じ庶民の姿が重なる。
傲慢な権力にNOを突きつける人々の姿が重なる。
これもまた、生きる力を呼び覚ましてくれる曲だったと思う。
これらオープニングはすべて、映像とともにYOUTUBEで見ることができる。
機会があったら、確かめてみて欲しい。
長々と語ってしまったが、もちろん、いまの時代の曲づくりについて、とやかく言うつもりはない。
むかしは昔、いまは今なのだ。
ただ私は時々、あのシンプルで荒々しい曲たちが、どうしようもなく聴きたくなってしまう。力強く生きる力を、取り戻したいと、願ってしまうのだ。
70年代の司馬作品の大河ドラマは、群像劇の面白さに溢れていた!
NHK大河ドラマに、最も多く原作が使われた作家は司馬遼太郎で、実に6本のドラマが制作されている。(2018年現在)
「竜馬がゆく」(第6作。1968年)
「国盗り物語」(第11作。1973年)
「花神」(第15作。1977年)
「翔ぶが如く」(第28作。1990年)
「徳川慶喜」(第37作。1998年)
「功名が辻」(第45作。2006年)
吉川英治原作の大河ドラマ
「太閤記」(第3作。1965年)
「新・平家物語」(第10作。1972年)
「太平記」(第29作。1991年)
「武蔵 MUSASHI」(第42作。2003年)
山岡荘八原作の大河ドラマ
「春の坂道」(第9作。1971年)
「徳川家康」(第21作。1983年)
「独眼竜政宗」(第25作。1987年)
とは言え、原作なしの脚本家オリジナル作品はさらに多く、最近はその傾向が顕著になっている。
原作ありの作品でも、90年代以降は大きくアレンジされ、脚本家のオリジナル作品に近いドラマとなってきているようだ。
大河ドラマの脚本づくりは、一年間にわたる長丁場で、歴史的事実を調べる必要もある。物語の土台となる事件や人物がいるにしても、大変な作業だと思う。
脚本家の皆さんは、どうやってドラマを作っているのだろう?
長いドラマを描くときには、主人公の身の上に次々と事件が巻き起こり、毎回ハラハラさせて見せていく手法と、複数の人物それぞれの事件やドラマを並行して描いていく群像劇の手法がある。
前者の手法は韓国ドラマに多い。最近のNHK大河ドラマも、同じ傾向のように感じる。
一方で欧米のドラマには「ER」「ダウントン・アビー」「ゲーム・オブ・スローンズ」など、後者の例が多い気がする。
そう言えば、「アベンジャーズ」も群像劇かもしれない。
本当に魅力的な群像劇では、それぞれのキャラクターひとりひとりが「自分こそ、このドラマの主役だ」と信じて生きている。
与えられる役割に差があっても、「自分なんてどうせ、主役を引き立てるための、通りすがりの脇役さ」などとは、微塵も考えていない。
それでこそ、ドラマ全体が盛り上がるのだ。
70年代に映像化された、ふたつの司馬作品の大河ドラマには、そういう群像劇としての生き生きとした魅力があった。
もちろん、二作品の脚本を担当された大野靖子さんの力が大きかったと思うが、複数の司馬作品が一本のドラマの中に取り入れられていたことも、理由のひとつだと思う。
「国盗り物語」(第11作。1973年)
「国盗り物語」には、以下の司馬作品が使われていた。
(カッコ内は、演じられた役者さんのお名前)
・ 斎藤道三(平幹二朗)、信長(高橋英樹)、光秀(近藤正臣)を描いた「国盗り物語」
・ 秀吉の家臣として生き、関ヶ原を生き延びて土佐の太守となった山内一豊(東野英心)と、その妻の千代(樫山文枝)を描いた「功名が辻」
・ 信長や秀吉と敵対した忍者、葛籠重蔵(露口茂)が主役の「梟の城」
・ 女のために本願寺に味方し、信長と対決した雑賀孫市(林隆三)を主人公とする「尻喰らえ孫市」
「花神」(第15作。1977年)
「花神(かしん)」には、以下の司馬作品が使われていた。
・ 倒幕勢力の中心となった長州藩の思想家・吉田松陰(篠田三郎)、革命家・高杉晋作(中村雅俊)を描いた「世に棲む日々」
・ 高杉らの意志を継ぎ、倒幕事業を完成させる戦争の技術者として活躍した、(ドラマの主人公である)大村益次郎(中村梅之助)を描いた「花神」
・ 言わずと知れた坂本竜馬(夏八木勲)を描いた「竜馬がゆく」
・ 同じく高杉晋作の暗殺者として活躍した天堂晋助(田中健)(但し、架空の人物)が主人公の「十一番目の志士」
・ 新撰組の土方歳三(長塚京三)らを描いた「燃えよ剣」「新撰組血風録」
・ 最後の将軍、徳川慶喜(伊藤孝雄)を描いた「最後の将軍」
・ 最後まで官軍と戦った越後長岡藩の河井継之助(高橋英樹)を描いた「峠」
複数の作品を使うことによって、複数の「主人公」の視点から、歴史を描くことができる。
歴史は主人公の側だけでなく、敵対した側からの視点も大事だ。
立場の違う視点から複眼的、多層的に描くことによって、歴史的事件や人々の行動の意味が、本当の意味で理解できるようになる。
歴史が立体的に立ち上がってくる感覚というべきだろうか。一気に視界が開けて、いろいろなものが見えてくる感覚だ。
それこそが、歴史を知る楽しさだと思う。
同時に、その複眼的視点が物語に深みと陰翳を与える。ドラマを見る楽しさも生み出していたと思う。
大河ドラマでも、映画でも、小説でも、マンガでもあるいはゲームでも、歴史や歴史上の人物に触れる機会があったなら、そこに留まらず、同じ時代を生きた他の人物や事件を描いた別の作品に触れてみて欲しい。
それが歴史のドラマを楽しむ醍醐味なのだと思う。
※ 敬称はすべて省略させていただきました。
※ 余談だが、この記事のため、「花神」のキャストを再確認していたら、声優の島本須美さんが、竜馬の妻のお龍役で出演されていたことに気づいてしまった(^_^;)
夜の記憶 記憶の声
私の作品を紹介します。
AmazonのKindleで出版させていただいている電子書籍です。
「夜の記憶 記憶の声」
SF要素を含んだサスペンスの物語を二編、収録しています。
こんなあらすじです。
「夜の記憶 記憶の声」
ある夜、車を走らせていた深町真哉は、謎の女から電話を受ける。
「あなたは誰?」
奇妙な質問を投げかけた女は、記憶を失っていた。
自動車事故で谷底に転落したらしい女は、深町に励まされて崖を這い上がるが、直後に何者かに銃撃されてしまう。
夜の闇の中、ふたりは記憶の深淵へと足を踏み入れていく。
「ドライヴィング・レイン」
土砂降りの夜道を走るワゴン車に、現金強奪犯が強引に乗り込んでくるが、車の荷物スペースには棺が積み込まれていた……。
死体の横流し事件の噂を調査する女性フリーライター来海凪沙(きまち なぎさ)は、やがて驚愕の真相に遭遇する。
AmazonのKindleストアで、「夜の記憶 記憶の声」で検索いただけます。
Kindle Unlimited.を利用されている方は、購入いただかなくても、お読みいただくことができます。
Kindle Unlimited.は初回30日間無料ですので、お試しいただければ幸いです。
贋作 桜の森の満開の下
絢爛たる舞台。
冒頭、度肝を抜くのは、舞台演出の華麗さだ。
舞台全体を覆う巨大な一枚紙の絨毯を突き破って、鬼たちが姿を現す。と同時に、逆さまに舞い降りてくる桜の森。
いかに芝居を見せるか、を熟知した野田秀樹の演出がこれなのだ、と圧倒された。
そして始まる物語は、言葉が織りなすイメージの迷宮。
妻夫木聡、古田新太、天海祐希ら演者の肉体を通して実体化していく物語世界に、観客はたちまち呑み込まれていく。
中でも、深津絵里の演じる夜長姫が魅力的だ。
無垢な少女と残忍な女王が混在する、魔性のヒロインが、登場人物たちと観客を翻弄していく。
早寝姫を演じた門脇麦にはいつか、夜長姫にもチャレンジして欲しいと思った。